昼下がりのチェンマイの旧市街地は、とても静かだ。
たまにこだまするのは、サムローの車輪の音と犬の鳴き声くらい。ここは、首都バンコクとは別世界。
チェンマイの街はどこを歩いてもディジャヴに似た、いつか見たことのある光景に出会う。
ふうっと漂う懐かしい香りは、ご飯を炊く香り? 匂いさえも、いつのまにか過去へ連れ去り、
目の前の景色が幼いころの思い出と交錯しはじめる。
ゆったりと呼吸するこの街は、ダリが描いたあのグニャッと曲がった時計が時を刻む。
まさに、超現実で懐かしい街、それが古都チェンマイだ。

この街を訪れたなら山岳民族の村々に行くことを勧める。車でなら1時間位。
そこにはラオスやビルマを境にしながら、独自の文化や生活を守り続けている人々がいる。
(もっとも今では多くのツアー客が流れ込み、村人たちも俗化しているが…)
もし行けたなら、彼らの着ている洋服、腰巻など布地なら何でもいい、見てみよう。
それらの一つ一つがとても美しく繊細な刺繍で出来ているのに気づくだろう。
これこそが、かの有名なラーンナー(北タイ山岳民族)の染め織物だ。
以前にバリ島で見たイカット(絣織)と比べてデザインがとても緻密で質が高く、仏教国独特の厳粛さすら感じられる。(神様ですら像に変えてしまうお茶目なヒンドゥー教とは比較にならないが)
気に入った布地があれば迷わず買って帰ろう。布地は古くて細かな柄が稀少だ。
自宅のリビングに飾ってもいいし、プレゼントにも喜ばれる。

チェンマイで忘れてならないのが寺院巡り。
とは言っても、お寺を見て歩くだけではつまらない。
どうせ見るのなら、日本とタイの仏教の違いを理解するだけで楽しみ方は変わってくる。
チェンマイのお寺(クータオ寺院)である若い僧に尋ねられた。
「日本では僧が結婚できると聞くけど、どうして?」
片言のタイ語を話す私も何て言っていいのかわからない。
彼らだって思春期の男の子、女の子に興味はある。

タイの仏教は、小乗仏教。日本のような信じるものは誰でも救われるという(大乗仏教)形骸化した葬式仏教とはわけが違う。彼ら(僧)は、この道を選んだ瞬間からあらゆる欲望を捨てる。
彼らは自分自身を高めるために修行に励む。
自分自身だけを救うためだからこそ、どんなに辛い修行であろうと耐えられるのだ。
彼らは朝早くに街へ托鉢に出かけ、人々からお布施や供物をもらって歩く。
しかし、きまって手を合わせ深々と頭を垂れるのは、それらを与える側だ。
そう、彼ら(僧たち)はお布施や供物をもらってあげているのだ。
俗世間から離れられないほとんどの人々が、自分たちの来世のために彼ら(僧たち)に供物を奉げる。
そして、死ぬまでにどれだけの施し(タンブン)を神様に与えられたかで自分の来世の幸、不幸が決まるのだ。人々にとってタンブンは来世のための貯金であり、僧はそのお手伝いをしてあげている。

タイの人々にとって、仏教とはまさに生活そのもの指している。
そんな彼らに日本の仏教など理解できるはずもない。
こんな宗教、文化のちょっとした違いから新たな価値が発見できる。
これこそが旅のダイナミズムだ。











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